比較の自己肯定の話 〜あの子より変じゃないから大丈夫〜
昨日紹介した『りさ子のガチ恋♡俳優沼』の中のワンシーンが目に止まった。主人公りさ子の趣味やそのハマり方を同僚たちに小馬鹿にされるところ。
「趣味は演劇鑑賞。そう言うとなぜか変人扱いされる。」
(出典:松澤くれは『りさ子のガチ恋♡俳優沼』、110ページ)
これは作者も体験していることなのか。随分と言い切るなぁ。
観劇を趣味とすることが変かどうかという話はさておき、この「変」と断罪できる理由はどこから来るのだろう。
私見だが、理解できないもの・想像できないもの・知らないものと接すると人は「変」と感じやすい気がする。一種の自己防衛。知らない限り判断は付かないはずなのに、「変だから」という理由を生み出して拒絶してしまう。
さらにもう一つ。それは自分の好きなものに比べてcoolかどうか。これがややこしい。
世論というものは世間一般論としてなぜか無意識のうちに浸透しているものである。先ほどの例をとってみると、
映画鑑賞と舞台観劇
趣味として「一般的」なのは映画鑑賞であるとイメージを持つ人が多いのではないか。単に母体数が多いからなのだが、片方が権勢を持つともう片方はなぜか「coolではない、ダサい」と断罪される。
残念な話である。
さらに残念なのは、少数派の趣味や嗜好を「ダサい」と言い切る人が一定数いることだ。しかしこの断罪の裏側にはこんな思考が存在する
「私の趣味・嗜好はあの子と比べてcoolだから大丈夫」
マイノリティーになることを恐れて、比較を繰り返して自己肯定感を高める。他人の粗探しをして、自信をつけたい、安心させたいのである。
なんたる不健康。
前にも言及した通り、私、炒卵は海外在住である。一年に一度日本にバカンスに帰る。そこで感じるのは、「他人の目」である。彼らは私を見て、その表層だけで私という存在を判別しようとする。背格好、体型、服装、所作、持ち物にいたるまで上から下までみっちり観察し、カテゴリー分けしようとする。
何かと不便な海外生活であるが、培った能力がある。それは、「人間は人間である」という認識。なんのこっちゃと思われるだろうが、他人の嗜好や見た目、性別を顧みずに付き合うことができる能力である。
この人は男性なのにこんな格好をしているから変な人、この人は女性なのにこんな趣味があるから変な人。このような偏見、誰もがお持ちではないだろうか。
それ故に、こうなりたくない、こう判断されたくないから、流行の服を着て、変だと判断されない物を持ち、合格ラインの趣味を持つ。
なんて退屈な。
好きな物を着て、好きな物を好きだと言って悪いはずがない。しかし好きな物を好きだと公言できない風潮が存在する。
偉そうなこと言っているが、私、炒卵も日本に帰ると日本人化する。他人の目が気になるのである。日本で生まれ育ったものには無意識のうちに刷り込まれているように思える。しかしもう少し、他人に無関心でもいいのではないか。
何はともあれ何が言いたいのかというと、流行の服を流行っているから、という理由で購入するのを控えていただきたい。店頭からそれ以外のタイプのものが消えるのである。流行の服が体型に合わないと何も買えないのである!