願わくば、全知全能

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本の話②『ユリイカ11月臨時増刊号』

最近、ようやく青土社ユリイカ11月臨時増刊号を手に入れた。

 

ユリイカ2019年11月臨時増刊号 総特集=日本の男性アイドル

http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3352

 

普段は気にも留めなかっただろうテーマだが、最近読んだ小説から興味を惹かれ、手に取ってみることに。ちなみにその小説とは松澤くれは『りさ子のガチ恋♡俳優沼』である。この小説で2.5次元舞台という世界と、俳優に「ハマる」という現象を垣間見て、いくつか疑問が出てきた。そんなときにこのユリイカ臨時増刊号が出ると。しかも松澤くれは氏も寄稿しているとのこと。

11月1日に手に入れて、ようやく一通り目を通すことができた。

 

このユリイカで期待したことは、

・アイドルをめぐるジェンダー

2.5次元舞台にハマる心理

・アイドルや俳優にハマる心理

の考察である。

 

目次を見てじっくり読み込もうと思ったのは、

・戦後日本のかっこかわいさを讃えて――ジャニ系と時代 / 千葉雅也

・男性アイドル雑誌地政学 / 辻 泉

・日本の男性アイドルの文化人類学――「未熟さ」を愛でるファン文化の検討 / カキン・オクサナ

・ジャニーズの関係性はホモソーシャルか――〈絆〉の表現が揺るがすもの / 西原麻里

・人形の恋――『男色大鑑』巻八「執念は箱入りの男」 / 井原西鶴 訳=須永朝彦

・誰が舞台俳優を消費するのか / 松澤くれは

・「推す」という隘路とその倫理――愛について / 筒井晴香

 

この中で面白く読めたのは三つ。あとはとにかく辛かった。期待していただけに、正直ガッカリすることもあった。

私にアイドルや舞台演劇、観劇や「推す」ことについての前知識はない。今回のユリイカは、自らがこれらの立場にいる人向けではなかっただろうか。実態のない「好き」という心理をさまざまな角度から文字に起こしたものであって、その感情を知っている人には大いに頷ける内容だったのではないか。

 

テーマがそもそも「日本」の男性アイドルであるからして、日本特有のアイドル文化についてフォーカスしているのはわかる。残念なのは「現代の」という言葉が抜けていたことだ。「日本の男性アイドル」がテーマであるならば、なぜアイドルという文化が根付いたのか、歴史的にその土壌があったのかを考察するような寄稿があっても良かったと思う。例えば江戸時代の歌舞伎役者の存在やブロマイドとしての浮世絵の流行がいかに市井の人間の生活に入り込んでいたか。これは現代のアイドル文化形成への一要因ではなかったのか。

 

次にアイドルをめぐるジェンダーについてだが、これに関してはかなり多くの記述があった。要約すると、「青年的で中性的」な顔立ちが今のトレンド。それに関して異論はない。現在メディア媒体で目にする俳優を見るとこの特徴がピタリと当てはまるからである。

「大人の男性であるのに青年的で中性的な顔立ち」と聞いて私が真っ先に思い浮かべたのが、カストラートである。読んで字の如く、去勢された男性歌手を指す言葉で、ボーイ・ソプラノの声質を保つために変声期を迎える前に去勢手術を受けさせる。男性ホルモンによる性徴を抑えることになるので、少年期の面影を強く残した顔立ちになりやすい。体格は成人男性と変わらないのに顔立ちは中性的、さらに美声。目的は違えども、歴史的にも、そして日本以外の地域でも現代の日本で「イケメン」の特徴と類似したものがあったのである。

ちなみにこのカストラートについてだが、同名の映画がある。実在したカストラート歌手ファリネッリの生涯を描いたもの。

http://www.cinemarise.com/theater/archives/films/1995004.html

 

このように、素人考えではあるが、現代日本以外にも人間が「アイドル」として扱われた時代・地域があったのである。現代日本のアイドル文化は確かに日本特有のものであろうが、その背景や土台となったものをもう少し取り上げても良かったのではないか。

 

今回のユリイカ、構成としてはジャニーズを代表としたアイドル文化→舞台演劇・舞台俳優、とテーマが移っていく。メジャーなものからニッチなものへと移行していくのだが、ここでいう舞台とは主に2.5次元舞台のことであった。筒井晴香氏の「推す」ことに対する心理解説はとても興味深かった。

なぜ・どこに2.5次元舞台・舞台俳優にハマるのか、というテーマに関する寄稿がなかったのは個人的に残念であった。この心理を知りたかった。しかしこれは個人的な興味であり、今回の臨時増刊号の構成に関しての批判ではない。

舞台関連で興味深く読めたのは残念ながら筒井氏の寄稿だけであった。知識もないし、観劇の経験もないからだろうか。とにかく読み辛い、というのが全体的な印象であった。

 

あまり批評や批判などは書きたくないんだけども。あまりにもポジティブな意見しか目にしないので、私が読めていないのか、と一人思い悩む夜。寒い。

時の重みの話 〜首里城焼失から考えた文化財の価値〜

世界遺産の一部である首里城が火災で焼け落ちてしまった。なんてこと…ノートルダムで火災が起きたのもまだまだ最近の話だと思っていたのに。こうも立て続けに世界的にも価値のある建造物に悲劇が及ぶと辛いものがある。

 

というのも私、炒卵は西欧諸国で文化財の保存・運用に携わっている。生業としているからか、あらゆる原因・形での文化財の消失は心に刺さるものがある。今回のような火災や事故、熊本城のような自然災害、イラクやシリアで政治的意図を持っての破壊、先住民族の逃散や生活環境の変化に起因した文化・文化財の絶滅。挙げればキリがないが、その存続が危険にさらされている文化財が世界にはたくさんある。

 

今回の被害を受けた首里城はその建造物そのものは文化財指定を受けておらず、史跡名称天然記念物として指定されている。首里城ではなく、「首里城跡」としての指定である。これは建造物ではなく、遺跡や城跡、または庭園などの名勝が対象である。城が建っているのに城跡の方に価値が見出された理由は、建造物としての首里城は1992年に復元されたものだからである。

2000年に首里城跡を含めた一帯が「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されている。点在するグスクなどの琉球王国の史跡群が評価されての登録。この時点で首里城が復元されてたった8年。登録対象も首里城の建造物ではなく、あくまで遺跡としての城跡であった。

 

ここで簡単に文化財保護の歴史やその価値の見出し方についてのお話。そもそもの始まりはもちろん西欧。石材を主な建材として使用していたため、耐久性に優れ、なおかつ後世で改築や改装がしずらかったため、建立当時の建材や意匠が残りやすかった。故にそこに価値を見出したのである。簡単簡素な論理。

ここで舞台を日本に移してみると、主に使用された建材は木。石材と比べると耐久性には劣る、加工もしやすいので人の手が入りやすい。修理や改修を繰り返すうちに、建立時期の裏付けが取れる資料の年代よりも使われている建材が新しいことが多々ある。建立時に使われた建材が一切残っていないのである。西欧流の考え方をすれば、オリジナルの建材が残っていない=歴史的価値がない=文化財ではない、となる。

建立当初の建材が残っていないから、何百年もの時を超え、そこに存在している建造物に価値はないのか。なぜ打ち壊されずに、なぜ打ち捨てられたままにならずに、現代にまで残り続けたのか。その意味を考えると、文化財の価値を建材によって定義するのはいささか狭すぎると言えるだろう。

1994年に採択された奈良ドキュメントによって、文化財の定義は広範に、柔軟に解釈されるようになった。現在ユネスコが定める世界遺産の登録基準は、建造物に限って言えばその文化を体現するもの、と要約することができる。

 

と、ここまでは前置き。歴史についてあれこれと講釈しても長くなるだけなので。

 

文化財の価値は建材のオリジナル性だけで定義されるものではない、という大きな方向転換は、世界に存在する多種多様な文化的遺産を価値があるものとして認めるきっかけとなった。だからといって、建材の価値は無価値であるという訳ではない。ここでようやく首里城に話題が戻るが、首里城の建物部分は1992年に復元されたものである。27年前に建てられた建造物の建材に歴史的価値はない。この「復元(reconstruction, 独:Rekonstruktion)」という手法は少々厄介なのである。復元された建造物というのは、建造物の特定の時代の姿を再現し、使用される建材もなるべく当時のものと合わせ(例えば木材の種類等)、さらに当時の手法や技術に近づけて加工し、使用する。その建材は当時の大工技術を伝えるという一つの価値を付与されるが、建材そのものの歴史的価値は存在しない。当時と同じ手法で、建材で、建築技術で再現された建造物。ここにいかなる価値を見出すか。

しばしば取り沙汰されるのは、復元=偽物という断罪である。この「偽物」という判断は、建材のオリジナル性を求めたがゆえに下される。しかしその文化を伝えるという面から観察した場合はどうだろうか。当時の技術を伝えるための面から観察したら。

ゆえに復元は厄介なのである。

 

ここからは私、炒卵の個人としての意見である。復元だからといって、たかだか27年しか建っていないからといって、その建造物に価値がないとは思わないでほしい。もし当時復元時に作成された資料も消失していたら、当時の技術を再現できる人間がいなくなっていたら…復元すらも不可能になるかもしれない。もしそうなったらその建造物は絶滅する。二度とこの目で見ることができなくなるのである。悲しいことではないか、こんなこと。

 

文化財の継承は、文化の継承でもある。伝えられる人間がいなくなったとき、それを受け止めようとする人間がいなくなったとき、その文化は死に絶える。文化財文化財たらしめているのは実は人間なのである、と私は思うが感情論に起因するこの散文をここで終わらせることにする。

 

ちょっと真面目くさりすぎたかしら。

比較の自己肯定の話 〜あの子より変じゃないから大丈夫〜

昨日紹介した『りさ子のガチ恋♡俳優沼』の中のワンシーンが目に止まった。主人公りさ子の趣味やそのハマり方を同僚たちに小馬鹿にされるところ。

 

「趣味は演劇鑑賞。そう言うとなぜか変人扱いされる。」

(出典:松澤くれは『りさ子のガチ恋♡俳優沼』、110ページ)

 

これは作者も体験していることなのか。随分と言い切るなぁ。

 

観劇を趣味とすることが変かどうかという話はさておき、この「変」と断罪できる理由はどこから来るのだろう。

私見だが、理解できないもの・想像できないもの・知らないものと接すると人は「変」と感じやすい気がする。一種の自己防衛。知らない限り判断は付かないはずなのに、「変だから」という理由を生み出して拒絶してしまう。

さらにもう一つ。それは自分の好きなものに比べてcoolかどうか。これがややこしい。

世論というものは世間一般論としてなぜか無意識のうちに浸透しているものである。先ほどの例をとってみると、

映画鑑賞と舞台観劇

趣味として「一般的」なのは映画鑑賞であるとイメージを持つ人が多いのではないか。単に母体数が多いからなのだが、片方が権勢を持つともう片方はなぜか「coolではない、ダサい」と断罪される。

残念な話である。

さらに残念なのは、少数派の趣味や嗜好を「ダサい」と言い切る人が一定数いることだ。しかしこの断罪の裏側にはこんな思考が存在する

「私の趣味・嗜好はあの子と比べてcoolだから大丈夫」

マイノリティーになることを恐れて、比較を繰り返して自己肯定感を高める。他人の粗探しをして、自信をつけたい、安心させたいのである。

 

なんたる不健康。

 

前にも言及した通り、私、炒卵は海外在住である。一年に一度日本にバカンスに帰る。そこで感じるのは、「他人の目」である。彼らは私を見て、その表層だけで私という存在を判別しようとする。背格好、体型、服装、所作、持ち物にいたるまで上から下までみっちり観察し、カテゴリー分けしようとする。

何かと不便な海外生活であるが、培った能力がある。それは、「人間は人間である」という認識。なんのこっちゃと思われるだろうが、他人の嗜好や見た目、性別を顧みずに付き合うことができる能力である。

この人は男性なのにこんな格好をしているから変な人、この人は女性なのにこんな趣味があるから変な人。このような偏見、誰もがお持ちではないだろうか。

それ故に、こうなりたくない、こう判断されたくないから、流行の服を着て、変だと判断されない物を持ち、合格ラインの趣味を持つ。

 

なんて退屈な。

 

好きな物を着て、好きな物を好きだと言って悪いはずがない。しかし好きな物を好きだと公言できない風潮が存在する。

偉そうなこと言っているが、私、炒卵も日本に帰ると日本人化する。他人の目が気になるのである。日本で生まれ育ったものには無意識のうちに刷り込まれているように思える。しかしもう少し、他人に無関心でもいいのではないか。

 

何はともあれ何が言いたいのかというと、流行の服を流行っているから、という理由で購入するのを控えていただきたい。店頭からそれ以外のタイプのものが消えるのである。流行の服が体型に合わないと何も買えないのである!

本の話①『りさ子のガチ恋♡俳優沼』 〜神様の作り方〜

本の買い方は様々である。

・好きな作家の作品

・話題の作品

ジャケ買い

 

三つ目のジャケ買いに関して、是非は大きく分かれるだろう。目に止まったから手に取ってみたものの、聞いたことのない作家の作品だし、読んだことのない作家の作品だし、レビュー読んでないし、と購入しないことがあるのではないか。失敗したくない、という気持ちはわかる。しかしジャケ買いこそ、新しい作品・新しい作家に出会えるチャンスなのである。

今日紹介したい本は、そんなジャケ買いで出会った作品の一つ。

 

松澤くれは『りさ子のガチ恋♡俳優沼』

(http://bunko.shueisha.co.jp/risako/)

 

この本を購入したきっかけはタイトルと装丁。あらすじを読んだだけでわかる装丁の作品へのマッチング度。これ以外あり得ない。そして背景色のこのピンク。この色以外あり得ない。

そしてタイトル。ガチ恋でありながら、沼。光と闇が見え隠れするこのタイトルと装丁は読者を選ぶだろう。自身も沼を知っている者か、単に装丁に惹かれた者か。おじさま層にはウケないだろうな。

 

大まかなあらすじは、2.5次元舞台俳優にハマっているりさ子がその偏向的な愛ゆえに暴走していくというもの。ネタバレしたくないので、これくらいで。

作者松澤くれは氏は演劇ユニットの代表でもあり、脚本や演出も手掛けているとのこと。彼だからこそ扱えるテーマなのか。目の付け所が斬新。

タイトルと装丁を見た方の中には、…ラノベ?と思った方もいるだろう。ラノベの定義はさておき、小説としてとっつきやすいテーマであることには間違いない。パラーっとめくると、ページ下半分空白になっているところも多い。この短い文章こそがこの作品の肝。

心情を吐露した短い文章を段落をかえながら繋いでいくことで、ダラダラと説明するよりも直接的に届いてくる。りさ子の偏向的な愛、現実との葛藤、理性で抑えきれなくなる衝動。経験したことないのにその心情をありありと想像させ、共感させる文章力である。

おそらくではあるが、この本を手にする方は、舞台観劇が趣味な方、または沼にハマっている方が多いのではないか。舞台のこと、演劇のこと、何にも知らなくても小説として楽しめるので、食わず嫌いせずに是非とも手に取っていただきたい。

 

なにはともあれ最初の疑問。2.5次元舞台俳優とはなんぞや、という話である。

 

2.5次元ミュージカル(2.5じげんミュージカル)は、漫画やアニメ、ゲームなどを原作・原案とした舞台芸術(主にミュージカル形式)の一つ[1][2]。なお、「2.5次元ミュージカル」は、一般社団法人 日本2.5次元ミュージカル協会が管理する登録商標である。

(出典:ウィキペディア2.5次元ミュージカル」より)

 

なんとまぁ、社団法人まで存在するのか。それほどメジャーな言葉なのか。

原作が二次元でありながら、現実の三次元の世界で演じられるため、2.5次元と称するとか。

 

…納得するかはさておき、このようなジャンルが存在する。

ファン層は、原作の二次元媒体のファンか、その舞台役者のファンと二極化されるだろうか。

主人公りさ子は前者のタイプで、原作で推しキャラがいて、そのキャラを演じている舞台俳優にハマり、応援と称して全公演観劇し、高額なプレゼントを送り、ファンレターを手渡しするために出待ちをする。

このような世界が現実にも存在するのだろう。作中にもファンの心得・存在意義についての記述が散見していた。この熱狂ぶりは実際に劇場に行かないとわからないだろう。

 

ここからは観劇したことがない私、炒卵が本作を読み終わった後に考えついた私見であり、想像である。違う、と思われる方がいらっしゃったら是非ご意見をいただきたい。

 

2.5次元舞台において観客が観たいもの、それは三次元の俳優が演じる二次元のキャラクターである。そこに俳優としての個性は存在せず、二次元のキャラクターを文字通り体現化する肉体だけが存在する。観客は俳優ではなく、キャラクターを観にきている(のではないか)。

そもそも俳優は舞台や撮影現場で自身とは違った人間を演じる。そのため俳優の人間としての個性が表に出てくることはない。しかし俳優としての個性はその役に吹き込まれる。「この場面のこの台詞における心情はこう解釈する」これが俳優としての個性であり、これをいかに表現するかが演技の上手い・下手に通じている(のではないか)。

しかしこれは2.5次元舞台には当てはまらない。原作が二次元であるがゆえに、そのキャラクターにそぐう台詞や所作、表情があり、俳優はその規範から外れてはいけない。ここで俳優としての個性は生かされない。また俳優以前の人間としての個性など言語道断。ゆえに俳優の「人間臭い」部分、例えば恋愛関係のスキャンダルが明るみに出ると火種となりかねるのである。

 

2.5次元舞台俳優とは、俳優としての個性、人間としての個性を徹底的に抹消し、キャラクターの個性のみを表現する存在になる。公演が終わってしまえばそのキャラクターの個性も消え、俳優は「無個性」となる。この「無個性」という穴にファンの理想が詰め込まれ、ファンの理想を全て叶える完璧な存在ができあがり。「神格化」である。

作中にも、舞台俳優にハマったりさ子の暴走を太陽とイカロスに擬えている記述があった。太陽という神様に憧れ、近づこうともがく人間。その太陽はりさ子によって作り上げられたものであるが、憧れているものに近づきたい、と突き動かされることは人間の業であり、また当然のことなのである。

 

2.5次元舞台にはそれぞれの神様を見出しやすい要素が揃っている。会いにいきやすい、SNSで繋がりやすいというのもその要素のうちに入るだろう。

 

とまぁ、いろいろと考えてみたものの、出典もないし、先行研究として読んだものもない、観劇の経験もない。観劇は今度のバカンス時の目標にするとして、2.5次元に限らず、舞台や俳優、演劇論や劇団について、また「ハマる」という心理について興味が出てきた。少しずつ調べてみようと意気込んだ矢先、なんともタイムリー。

ユリイカ2019年11月臨時増刊号 総特集=日本の男性アイドル

http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3352

ここに私の今知りたいことがすべて詰まっているではないか。松澤くれは氏も寄稿しているし。

 

ぐぅぅ…読みたい…次のバカンスまでお預けだなんて…

 

ジャケ買いした一冊の本から新しい世界が広がることもある。だからジャケ買いはやめられない。

活字の話 〜活字の依存性〜

世の中には活字中毒なる言葉がある。もちろん正式な精神疾患ではない。椎名誠の『もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵』でこの言葉が大々的に世の中に出てきたのではないか。

(https://www.kadokawa.co.jp/product/199999151014/)

かつてこの本を読んだとき、文字に執着するなんてあり得ない、依存性があるわけでもなしに、と共感できなかったのをよく覚えている。しかし最近、もしやこれは…と思うことがあったので、ここに私自身に対する疑念を綴ろうと思う。

 

私、炒卵は日本から輸出され、現在西欧諸国で生活を送っている。一時的な逆輸入という形で日本に戻ることが一年に一度。三週間ほど、バカンスとして日本に滞在する。

今年のバカンスの初日、ようやく空港に到着し、移動のためにバスを手配。待ち時間が1時間半。何の気なしに大荷物を持ちながら空港内をぶらつき、ご飯でも食べるかな、などと思っていたところ、目についたのはTSUTAYAの看板。

釘付けである。TSUTAYAの看板を見上げ、棒立ち。

今ここで入ったら荷物が増える…そもそもご飯食べたいんだし…と思いつつも、簡単に吸い込まれていった。

 

TSUTAYA、そこは天国

 

空腹を覚えているからか、整然と鎮座した本たちを前にしたからなのかはわからないが、とにかくよだれが止まらなかった。

気付いたら1時間が経過し、焦ってバス乗り場へと向かった。

このとき思い出したのが「活字中毒」という言葉。

いや、まさか。活字に依存性も中毒性もない。単に造語であり、本好きな方々の中でもとにかくたくさん読みたい人が使っている言葉だ、と自分に言い聞かせる。

 

活字中毒が悪だと言っているわけではない。毎年の日本でのバカンスの際には大量に本を買い込み、無理やり荷物に詰め、超過料金まで支払って持ち帰っている。ゆえに読書に対してある程度の嗜好と執着はあるし、活字中毒になるポテンシャルはあったかもしれない。しかし帰国したその日にそのままTSUTAYAに赴き、よだれを垂らしながら時間を忘れて店内を徘徊するなんて。

 

バカンス初日がこれである。その後はひたすらに本屋に通い、時間があったら本を読み、そしてまた本屋に向かう。そうして三週間が過ぎてしまった。

読めるときは一日で一冊読んでいたが、そうするとその日の終わりには脳内が活字で埋め尽くされているような感覚に陥る。寝る前に目を瞑ると目の前に躍り出てくる活字たち。ストーリーを思い浮かべ、その場の情景を思い浮かべ、登場人物を思い浮かべ、それを俯瞰で見ている私。しかし私の脳内の登場人物は話さない。その代わりに活字がポイポイと浮かんでくる。活字の意味や形で埋め尽くされた脳は他に機能しなくなる。邪念が消えるのである。これはもはや一種のトランス状態である。

 

活字の依存性、ここに見出したり。

初めの話 〜まさにAB OVO〜

それでは初めから。

AB OVO

はじめを飾るのにこれ以上ふさわしい言葉はないだろう。

このラテン語を知ったのは米原万里旅行者の朝食』の第一話「卵が先か、鶏が先か」の中。

https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167671020

作者がロシア語・日本語同時通訳者として活躍していた中で、ヒヤヒヤな体験をすることになったきっかけがこのAB OVO。直訳すると「卵から」という意味なのだが、そこから派生して「最初から」という意味になる。

炒り卵を自称する私にぴったりではないか。

 

何かを綴ろう、というより書き留めよう、と私に思わせたのが上述のエッセイ。軽めの文体でスイスイと読み進められるのに、読んだ後には食べ物に関するとんでもない量・質・内容の知識を得られる本。AB OVOだけでなく、ウォトカの出生年やそれにまつわる政治的ゴタゴタや、レストランでの食事のサーブの歴史、そしてタイトルにもなった「旅行者の朝食とはなんぞや」などニッチなテーマを取り扱っているが、全く疲れさせない。面白すぎてどんどん読めてしまう。さらに出典や調べ物に使った文献のタイトルまであげているので、そこら辺を覗き始めると読んでいるだけでは足りなくなるのである。

メモを取らないと、書き留めないと。

 

こうなるともう止まらない。しばらく離れていた「調べ物」を始めて、気づいたら3時間経っていた。文献リストも増え続けた。こうやってインプットを続けていたら、吐き出す場所がないことに気づいた。研究者でもない、作家でもない。知識と活字を入れ続けた結果、限界が来たのである。

卵が割れる。

 

テーマや分野を設定しないで興味の赴くままに。そんなことを考えていたら、純度100%の文系だが、今になって自然科学にも興味が出てきてしまった。理解できないのは百も承知。しかし知識としてこの世に存在しているのに知らないままでいるのはもったいない。そう思ったら、

「願わくば、全知全能」